書 物 と ペ ン と と あ る 場 所 。
「あぁ、どうしましょう・・私ったらすぐ無くしてしまうんだわ・・・」
真っ白しかない廊下を、マイアは早足で歩いていた。
ヒールのついたブーツの、コツコツという単調な冷たいリズムが廊下に響く。
マイアはフリルが異様なまでに付いたワインレッドのドレスの裾を両手で持って、
転ばないように歩く。
その緑の瞳は右に左にと泳いで何かを探しているようだった。
「あのペンでないと・・私・・・」
焦ったようにブツブツと小言を呟く。マイアは今、相当なパニック状態だった。
心なしか歩みも早くなってくる。
白いだけの廊下を早くなる歩調で歩く。なんだか可笑しくなってしまいそうだ。
ただでさえ、大事なペンを何処かに忘れてきてしまったのかも知れないというのに。
ぐるぐると考えていたマイアは、あ、と声を上げて急に立ち止まった。
そして今歩いてきた廊下を振り返る。
前も後ろも、同じ風景だった。
「もしかしたら、お茶会の時かもしれませんわ・・!」
考えを噛み締めるように小さくゆっくりと呟いて、
マイアはまたドレスの裾を持って走り出した。
額にじわりと汗が浮かんだ。
マイアはただひたすら白い廊下を進んでいた。歩く、というよりもう走っている。
時たま転けそうになったが、そういう時のバランスは天下一品だ。
そんなマイアも前しか見ていなかった所為で、
床に積んであった本のタワーに気が付かず躓いてしまった。
あまりの不意打ちに、天下一品のバランス感覚も発揮できず
その後にもずらずら並べてある本の山にダイヴ・・・・
「ぎゃ!」
声を上げながら目をギュッと閉じて、その瞬間がまるでスローモーションのように長く感じた。
ああ、死んだ。お亡くなり。皆さんアディオスディナー。どうかお元気で。
などと思っていたが、いつまでたっても痛みは訪れず、
本当に死んだかも、とマイアは目を閉じたまま青くなった。
それになんだか変な浮遊感もある。
「・・・おい。いつまでそうしてんだよ?」
上から聞き慣れた声が降ってきてマイアは、え、と目を開ける。
そこには何時ものような不機嫌そうな顔のリリスがいた。
マイアより何10cmも背の高いリリスの顔が割と近くにあるのに違和感を感じ暫く固まる。
そしてようやく自分がリリスにお姫様だっこのようにして抱え上げられているのを知った。
「す、すみません・・!ありがとうございます」
マイアは慌ててお礼を言うと、リリスの腕から地面へ降りた。
実を言うと高い所が苦手なのだ。
別の意味で心臓がばくばくいいはじめていた。
「ごめんね〜マイアちゃん、大丈夫?」
廊下を埋め尽くす本の間に立っていた、千璃が申し訳なさそうに謝った。
この本は千璃の本だ。部屋の掃除でもしていたのだろう。
「いいえ、こちらこそ前も見ずに・・」
悪いのは自分だ、と頭を下げた。
横で腕を組んでいたリリスが、全くだそそっかしい、と溜息を零した。
「何かあったの?」
よいしょ、と本のタワーを抱えながら千璃が聞いてくる。
その問いで、マイアは自分が探し物をしていた事を思い出す。
ダイヴの衝撃で飛んでしまっていた。
「そうでしたわ!私、ペンを探さなくちゃ」
独り言のように叫ぶマイアに、リリスが眉間に皺を寄せる。
千璃も、え、と本からマイアを見た。
目を丸くした表情が、幼い顔をもっと幼く見せていた。
廊下は、数秒シーンとなった。
「・・ペン、って・・大事な商売道具じゃねぇか」
暫くの沈黙を破って、相変わらず男らしい口調でリリスが言った。
その‘綺麗なお姉サンはすきですか’といったようなフローラルな容姿には似合わない話し方だ。
「なくしちゃったの?」
一方、本当に男の千璃は柔らかく優しげな声色で聞いてくる。
こちらの方が女性のようだ。
マイアは動く度にひらひらと揺れる裾から出た、白くて細い指を胸の下で組み俯いた。
「それがよく分からなくて・・」
小さく呟くその声は、どことなく泣きそうだった。
リリスと千璃は顔を見合わせた。リリスは首を傾げて見せた。
「心当たりは・・探してみたんですが」
でも見つからなくて、と泣きそうな声を出すマイアに
千璃は近付いて、緩くウェーブの掛かった茶色っぽい細い髪を撫でた。
「大丈夫・・きっと見つかるよ?」
柔らかな声がとても心地よくマイアの涙腺を刺激した。
はい、と返事をした頃には瞳には涙が浮かんでいた。
「僕らも探してあげよ。ね?」
いいよね?、といったように千璃はリリスを見た。
リリスは小さく溜息を零した。
「しょうがねぇなぁ・・」
やれやれというように呟く。
だけれどその声色は、何処か優しげでもあった。
「どうしょうましょう・・っ私・・私っ」
千璃の後ろでマイアが泣き出しそうな声を零した。
しゃがんでいた千璃は不安定が滲む笑みをマイアに向けた。
「だ、いじょーぶだよ?」
その言葉には最早説得力はなかった。
マイアの耳にも届かなかったらしく、マイアはしゃがみ込んで顔を覆った。
「あのペンがなくちゃ・・私何も書けないわ・・ッ」
マイアの肩が震える。
リリスは慌ててマイアに近寄り隣にしゃがみ込んで、肩に手を置く。
「落ち着け。まだ見つかるかも知れない」
冷静な声でリリスが呟く。
しかしマイアは駄々を捏ねるように首を横に振った。
「だめ・・」
バラバラと優しい言葉が抜け落ちていく。
マイアは大きく目を見開いて、自分の両手を見詰めた。
「それじゃ駄目なんです・・だめなんです・・ッ」
幸せな、幸せな物語を書きたかった。
誰だって何だってキラキラ輝いているような、そんな、物語。
私の血の滲んだお話は、果たして輝いていたのだろうか。
それも分からなくなるの。
私はこんなに、小さくて、ミジメだったかしら?
私はこんなに・・こんなに・・。
私の物語が、誰も幸せにしないから・・。
そんな事分かっているのに・・。
「おいっマイア!」
強い声も抜け落ちていく。
この両手の隙間からバラバラと。
もう私は物を掛けない。もう私は無能だ。
無能・・ムノウ・・役立たず・・!!!
「いやっ・・違うの、・・っ違う!!!」
しゃがみ込んだまま耳を塞いで、マイアが叫び出す。
パニック状態になっているマイアの肩を、リリスが揺らす。
「マイア、マイアっ!」
必死に呼ぶがマイアには届かない。狂ったように叫び続けている。
リリスは唇を噛み締めて右手を握りしめた。
そして、マイアの腹に一発お見舞いしてしまったのだった。
「・・・リリス・・」
二人を見下ろし、千璃が呟いた。
リリスは気を失っているマイアを抱えたまま俯いている。
「だって・・そうだろ?」
泣きそうな声でリリスが言った。
千璃は両手を握りしめて、うん・・、と。
頷くしか無かった。
私のペン。大事なペン。
あの人から貰った大事な・・。
大事なあの人の・・・。
本当に私が‘無能の役立たず’だった頃。
私は毎日何をするでもなく、ただぼーっと過ごしていた。
考えていたのは、ただの空想。
おとぎの世界の住民になってしまいたかったから。
そんな時、出会ったのがその人だった。
『じゃあ、君のその‘ただの空想’を書いてごらん。
それは何にしたってお話になる。
それを‘仕事’にすれば・・君は泣かなくても生きれる。』
そう言ってその人は、私の手にペンを落とした。
その日から私は、本当に泣かなくたってすんだ。
空想すればするほど、私は楽しくなり、ペンは進んだ。
そんな毎日は生き生きしていて。
それ、なのに。
「ん・・。」
何の夢も見ない睡眠は、覚束なく歩いてきた後のようだ。
マイアはうっすらと目を開けて、いつもの天井を見上げた。
ペンは、見つかっていない。
あの人も、何処にもいない。
「・・まぁ、私は本当に無能に戻ってしまうんだわ」
マイアは天井を見詰めたまま呟いた。
狂ってもいいくらいの事なのに、どこか冷酷な自分も居て。
考えれば考えるほどどんどん虚ろになっていく。
「マイア、起きたのか?」
リリスの声がして、マイアは目だけを動かした。
その拍子に頬に細く涙が伝った。
ドアを開けた状態のままこちらを見ているリリスは、何処か酷い顔だった。
「いけませんわ・・リリスさん」
マイアはリリスに気絶させられた事など知りもしなかったが
躯に力が入らず、頑張っても首だけしかリリスへと向けることが出来なかった。
「・・マイア?」
リリスは不思議そうに小首を傾げた。
ドアを閉めては近付いてくるリリスに、マイアは目を見開いた。
「来ないでっ!」
自分でも驚くほど大声をあげてしまった。
リリスも驚き、躯を強張らせては立ち止まった。
じわじわと、躯に力が戻ってくる。
「ど・・うしたんだよ・・?」
恐る恐る口を開くリリス。
マイアはそっと起き上がった。
「分かってたんです・・私、本当は・・分かってた・・。
ペンを無くした時、もう戻ってくることはない、って・・・」
だからあんなに怖くて不安だった。戻ってしまう、と。
リリスはその場で立ち尽くしていた。
「だから、もういいんです。」
マイアはベッドの上に立ち上がった。
今にも泣きそうな、酷く絶望した表情だった。
リリスは目を見開き、そんなマイアを見上げる。
「マイア・・落ち着け・・」
リリスの言葉が聞こえなかった訳じゃ無かった。
ただマイアは、分からなかった。ペンが無くなって、書く事が出来なくなって。
そして自分は今まで通り存在していけるのか、と。
「ごめんなさい・・でも、私・・っ」
マイアはただの無能で、それでも力を持ってしまった我が儘な女に戻ってしまった。
その真っ黒な瞳は最早輝きなど皆無だった。
リリスは臆してしまい、動く事が出来ずうろうろと瞳を彷徨わせた。
「私は、・・悲しいのっ・・!」
つ、と太い筋の涙が頬に伝った。
その時、リリスの頬には赤い液体が伝った。
「っあ・・ぐ・・っ」
悲しいの、怖いの、悲しいのっ!怖いのッ!
マイアは叫び始めた。そのたびにリリスの躯に傷が入る。
「・・ぁ・・ッ・・マイア・・っ、迷うな・・!怖がるな・・っ!」
必死の声も、もうマイアには完全に届かなかった。
リリスは床に膝をつき、奥歯を噛み締めた。
「くそ・・ッ・・あいつがマイアに書く事なんか教えたから・・!
あいつが・・、っぐ・・ぁ、あ・・ッ!」
口の端しから血が零れ、視界も滲んで揺れてきた。
これがムシノイキってヤツか、と苦笑。
「もう嫌なのっ!」
マイアの叫び声が、リリスの身を貫いた。
「っ・・・・ッ!」
躯に、穴を開けられたような痛みが脳内に響いた。
リリスは床に倒れ、細く閉じていく喉で何とか呼吸をする。
しかし自分でも、もうそんなに長くはない事は分かっていた。
「ま・・イ、・・」
掠れる声でリリスは零した。マイアは泣き崩れていた。
霞んでいく視界の中、マイアは何より酷い顔をしていた。
そんな顔すんな・・マイア。
お前は書かなくたって、生きてていいんだ。
無能なんかじゃないんだ・・お前は・・!
あれは、何でも無い日。平和な日々がいつまでも続いていくと思ってた。
マイアは日々、誰よりもぼーっとしていたけど、
お茶会だって楽しそうに笑って菓子を食べていたし
本人が思ってるより、彼女はずっとちゃんと生きていたと思う。
そんな中ある男がやってきて、マイアにペンを与えた。
マイアは喜び、毎日部屋に閉じ篭もってはペンを走らせるようになった。
彼女は現実を生きれなくなった。
話し掛けても、受け答えがふわふわしていて、おとぎじみてて気味が悪い程だった。
このままじゃ、いけない。
これ以上彼女をフェアリーテイルにしてはいけない!
「どういうつもりだっ!?マイアにペンなんか渡しやがって!」
あの男は、顔色一つ変えずにこちらを見ていた。
その瞳は冷たくて、何もかもを壊してしまいそうに見えた。
「マイアは喜んでいたじゃないか。あんなにはしゃいで」
男の意図が分からなくて、苛立った。
「あいつにおとぎを教えるな!」
この場所は、狂ってる。
歯車の噛み合わない場所。
だから誰しも、何も考えずに生きているのだ。
考え始めると、止まらないから。
「いいじゃないか。彼女がそれを望んでいるんだ。」
男は、 笑った。
案の城、マイアの物語はフェアリーテイルばかりで
その為にいろんな物が壊れていったといえる。
彼女は知らず知らずの内に、罪を産んでいった。
「っ・・は、・・はッ・・」
本の間で咳き込む千璃は、直にマイアの物語の犠牲になっていた。
血を吐き、空気も受け付けず、何度も泣きながら夢へと行き、叫びながら帰ってきた。
「千璃・・大丈夫か?」
私はただ、いろんな物を心配していただけだ。
そして、苛立っていただけだ。
「・・っん・・。だいじょーぶ・・」
千璃は微笑む。
それが居たたまれない癖に、止める術を知らない。
「・・クソ、こんな事ならさっさと取り上げておけば良かった・・。」
既にマイアを止めるのは不可能になっていた。
マイアの日々の中に、創作が組み込まれてしまったのだ。
「・・っ・・女の子が、クソなんて言っちゃだーめ・・。
僕は・・大丈夫だから・・ね?」
マイアからペンを取り上げると、どうなるか分からない。
千璃は、書かせてあげよう、と言った。
「ッ・・、つ・・」
そしてまた、血を吐いた。
私は千璃のように優しくはなれなかったし、
マイアを止めてやる事も出来なかった。
この狂った世界で、
色々なものに呑み込まれるのを恐れながら、日々を送っていただけだ。
彼女が拒絶をするように、私も拒絶をしていただけの話だ。
「・・めん・・ッ・・せん、り・・」
リリスは暗くなっていく視界を見詰めながら、
躯の力がなくなっていくのを感じていた。
マイア、マイア・・泣かなくたって、良いんだ・・。
「・・っ・・離して、下さい・・」
本の中に倒された千璃は、呟きながら息苦しさに涙を浮かべた。
自分の躯の上に乗っている男を見上げては、睨む。
「煩い!答えろ!マイアのペンは何処だ!?」
男に胸倉を掴まれ、千璃は咳き込む。
どいつもこいつも反吐が出る。千璃は男の服を掴み返した。
「そんなもの知りません・・こっちが聞きたいくらいだ」
さっき、頭の中に痛みが走った。
リリスが、とすぐに分かってしまった。
すぐに行きたい所だが、躯も動かないし相手に捕まってしまった。
「嘘をつけ!じゃあ誰が隠したんだ!?」
男は必死に叫んだ。最初に出会った時の冷たさが微塵も無く。
男の体重と本のごつごつに押し潰されそうになっていた千璃は、目を細める。
「隠した?彼女は、無くしたんですよ?僕らじゃなく、彼女自身が」
千璃の言葉に男は目を見開いた。
やがて男に、首を両手で掴まれる。
「嘘を、つくな・・っ」
悪あがきだ。
千璃は余計に息が出来なくなり、掠れた呼吸をする。
「嘘、じゃない・・ッ・・っは」
滲んだ瞳は責めるように男を見上げる。
男は暫く千璃の首を絞めていたが、やがて緩めた。
千璃は咳き込み、横を向いた。
「・・っ、・・分からないの・・?この場所に歯車はない・・。
この世界で文字を作ってはいけない!」
千璃の叫びに、男は眉間に皺を寄せた。
「ここが、カオスの生き残りだからか?」
男の言葉に千璃は苦笑した。
背中へと本の角が、批難するように痛みを送る。
「カオスとあの女は、全てを支配できる力を持っている・・!
何故それを阻止する!?」
笑いながら男は零した。
それが目的か・・、と千璃は目を細めた。
「世界は文字を欲している、もっと、もっと、沢山の文字を・・!」
男は千璃のシャツに手を掛けた。
こいつヤバい、千璃は心臓が止まりそうになった。
「これ以上・・カオスに文字を放り込まないで・・!マイアちゃんを苦しめないで・・っ」
千璃は暴れる気力もなく、それだけを必死に叫んだ。
しかし男はシャツのボタンを飛ばした。
「・・・やはり、お前が調整者か」
千璃の素肌を見て、男は苦笑した。
白い肌に、真っ黒な文字が沢山浮かんでいた。
「っ・・は、・・ッ」
千璃は咳き込み、その口の端から血が零れた。
「あの女のおかげで随分弱っているな・・お前の肉体は死にはしない。
だが精神は壊すことが出来る。」
男を精一杯睨んだ。それが何の効果のない事を知っていながら。
「お前の精神を乱したら、このカオスはどうなるんだろうな?」
男は怪しく微笑んで、千璃の瞳を覗き込んだ。
「あなたにカオスは扱えない。呑まれるだけだ。」
それでも構わないさ、と耳元で囁かれた気がした。
昔、世界を包んでいたのは沢山の文字だった。
文字は全てのものに浸透して、あっという間に全てを満たしていった。
それは幸福も産んだが、綺麗ではないものも沢山育てた。
やがてそればかりが溢れた世界は、混沌とした場所「カオス」になった。
カオスは複雑に駆け巡り、何も混ざらない美しさを壊していった。
美しさを忘れた人々はカオスに呑まれていった。
しかしそのカオスを「魔法」と呼ばれる力で消し去る存在が現れた。
世界が少しずつ明るくなっていく。
そこから取り残された世界が、この場所だ。
文字の入り乱れる、一見簡素な場所。
だけれど一度バランスが崩れれば、何一つ目に見えるものにはならない。
だから文字を本の中に閉じ込め、制御してカオスを押さえ込んでいた。
しかし、マイアがでたらめに文字を産み出し始め、文字が暴走する。
それが場所へと向かないように、躯へと向けていたが・・。
「やめ・・っ」
カオスが、流れ込む。
「きゃああああ!!!」
「うわあああああ!!!!」
「・・・っッ!」
全て、呑まれる。
「・・っん・・?」
瞼に光がぶつかり、リリスは意識を取り戻し目を開けた。
「いた・・た・・何処だここ・・」
ゆっくりと起き上がって、辺りを見回す。
そこはいつもの千璃の部屋だった。本で溢れた千璃の部屋。
リリスはよろよろと立ち、千璃・・マイア、と呼んだ。だが返事はない。
「・・・どうしてだ?私の肉体は滅びたはずじゃ・・」
リリスは自分の躯と手を見下ろした。
マイアに傷付けられたはずの躯や手、そして服さえも無事で綺麗なままだった。
不思議に思いながらも本の山を避けながら千璃の机に近付く。
「・・・?」
唯一、片付いている机の上には半透明の小さなボタンと書きかけのノートが置いてあった。
その横に、マイアのペンも。
リリスはノートを手に取った。広げられたページの真ん中には、黒く滲んだ文字。
「アパートグラシ、ベランダ無・・?」
特に意味のないような言葉だったが、リリスは何かが引っかかり、
ノートを机に置き、それを見詰め暫く考えていた。
ボタンを手にとっては、首を傾げる。
「ベランダ・・・。・・庭・・?」
リリスは呟き、その言葉に、はっ、となった。
顔を動かすと、本の詰まった棚の隣に無いはずの窓があった。
そこからは明るい光が差し込み、耳を澄ますと外から鳥の鳴き声が聞こえてくる。
「・・嘘だろ・・?」
目を見開き、リリスは呆然と呟いてよたよたとそちらに歩み寄った。
そんな馬鹿な事はある訳無い、と思うのにそんな気がするのだ。
リリスは窓をそっと覗き込んだ。
「・・っあ」
今まで、一度も見たことの無かった自然な光が世界を包んでいた。
空は白と青はっきりと別れて、雲と、空と、名前がついていると。
緑が広がり、花が咲き誇っていた。
「庭だ・・・!」
立ち尽くしていたリリスは零した。
ここは、世界だ。カオスなどではない。
本とペンと庭。ここは、マイアの世界・・?
リリスは窓を開け放って、そこから顔を出した。
庭は明るく広がっていたが、そこにはマイアの姿も千璃の姿も無かった。
しかし、初めて見た明るい世界にリリスは居たたまれなくなり振り返って走り出した。
部屋には一つしかないドアを開けた。
その向こうは白ではない木造の廊下だったがリリスは立ち止まることなく廊下を走って
その先にある扉を両手で開く。
「・・・っ!」
花の香りが花を擽り、リリスは目を見開いた。
野バラのアーチと、花壇もなく植わる花々。
白い噴水、そこから流れる透明な水は光に反射して光っていた。
「ここが・・カオスのない場所・・。」
違う、世界だ。カオスのない、世界。
リリスは気付かぬ内に泣いてしまっていた。
葉が風に擦れる音の隙間から、光が注いで知らない色の花と果実と・・。
「リリシア・ジエスさん?」
不意に呼ばれ慣れないフルネームを呼ばれ、涙も拭わずにリリスは振り返った。
そこには見知らぬ女が立っていた。
家の中からリリスに小首を傾げ、やがて近付いてきた。
「あ・・ここ、は・・」
呆然とリリスが零すと、女は小さく笑って扉を押さえた。
そしてそこから空を見上げる。
「・・ここは、‘最初の庭’。
切り離されたカオスから、此処へ来たのはあなたが初めてね」
女は黒い瞳を細めて笑った。そしてリリスの頬へと手を伸ばす。
リリスは、え、と口の中で呟く。
「マイアは・・千璃は?」
リリスの頬の涙を拭う女は、苦笑のような表情を浮かべた。
「オジェリア、とセツ・・。」
女は呟き、リリスから手を離した。
そしてその手で、自らの噛みを掻き上げた。
「この世界には居ませんし、何処の世界にももうマイアと千璃はいない・・。
世界から世界へと移動する為には、名前を変えなくてはなりません。
彼らはそうやって、名を捨て、別の世界へと行きました。」
女の言葉にリリスは足下を見下ろした。
別の・・、と呟く。という事は、あの場所は完全なカオスになってしまったのだ。
結局、自分は何をする事も出来なかった。
「・・この世界は、かつての庭師達によって想像された世界の集合体。
カオスを分解し、そこから世界を・・‘庭’を想造する。」
女は扉を潜り、外へと出た。
そして地面にレンガを埋め込んで作った道を歩き、バラのアーチの横にあるポストへと歩いていく。
「マイアが行ったのは、とある小説家の思想の世界。
千璃は、全ての世界を書き記す‘部屋’。」
ポストを開け、中から封筒や新聞のようなものを取り出しながら女は言った。
そして、それを見詰めるリリスの元へと戻ってくる。
「彼らは運命に従い、偶然にも世界が必要としている‘想造’へと向かった。
誇れることです。」
女は優しい声色で言い、郵便の中から一通の白い封筒を取りだした。
そしてそれをリリスに差し出す。
「ここに、あなたを必要とする世界からの招待状が来ています。
これを、開くかどうかはあなた次第ですが・・。」
女の説明を聞きながらもリリスは封筒を見詰めた。
必要とする世界、何も出来なかった私を・・?
「この世界に行ったら・・‘私’は・・?」
名前をなくす、という事は今までの自分は跡形もなく消えてしまうだろう。
マイアも、千璃も、次に会ったって誰も覚えてなどいない。
「・・そうですね。・・でもあなたが、此処に居た、という事は消えません。
私は、覚えていますわ。」
女は静かに頷き、やがて微笑んだ。
苦笑をしたかったハズなのに、つられて同じように微笑み、封筒を受け取った。
『リリシア・ジエス・・さん?・・略して、リリスさん、何てどうですか?』
マイアが付けたこのあだ名は、あの白い場所にあっという間に染み込んでいった。
マイアの靴の音が、千璃の微笑みが、あの場所には溢れていたハズなのに・・。
今はもう、全てカオスで、二人もそんな場所の事など・・。
分かってる
そうやって生きていく。
何処の世界でも、どの場所でも。
「消えませんよ、躯が変わっても、記憶を無くしても・・
魂というものが、在る限り。」
女は言って、くるりと踵を返し庭へと進んでいった。
リリスはその後ろ姿を見送り、封筒へと目を落とした。
消えない、魂が、在る限り。
例えば、偶然会えたとしてみんな何も覚えていなく立って、
何か、とか小首を傾げる。
それだけの、ものであっても。会えなくても。
「・・行ってやろうじゃねぇか・・!」
白い、封筒を開ける。
過去、未来、今。
重複した世界が欲するのは、ただ・・・。
「セツ・・。」
「オジェリアーーーっ!!!」
「・・リリスっ!」
さあ、世界で両手を広げよう。
End